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葛原妙子の美と戦慄   松浦寿輝(804asahi)

 わたしは二十二歳で、詩を書きはじめようとしていた。五・七・五の定型には通り一遍の興味しかなかった。その頃たわむれに作ってみた短歌が多少あるが、塚本邦雄の亜流で取るに足らぬものである。
 しかし、詩でいったい何を謳うのか。二十二歳の青二才には深い思想も熱い倍仰もなく、国の敗亡といった歴史的事件に立ち会った経験もない。かと言って、花鳥諷詠の抒情に浸る気も、甘ったるい恋愛詩に陶酔する気もなかった。わたしの関心は、日常生活のただなかでふと時間が裂け、空間がほころび、彼方の「何か」が見える一瞬を言葉で掴み取ることにあった。
 口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
 晩夏光おとろへし夕 酢は立てリー本の填の中にて
 そんなとき、わたしの視野にせり上がってきたのは、吉岡実の詩とともに葛原妙子の短歌である。昏く静まりかえった形而上的世界がそこにはあった。「幻視者」葛原妙子。重要なのは、その「幻視」の一瞬を彼女が掴み取ってくるのが、変哲もない日常のただなかからだという点だ。口中に葡萄の果汁が送る一瞬、翳ってゆく陽光の中、酢が天に向かって垂直に立つ一瞬−そのとき、日常を超える「何か」が人の魂と身体をうつ。
 同時にまた、その「何か」の到来を結晶させて潔く立っているこの一行の詩の、凍とした立ち姿に報る美はどうだろう。「すなはち」の強引な論理化の迫力、「晩夏光おとろへし夕」の後の一字分の空白が湛える緊張感はどうだろう。
 以来、三十数年、葛原妙子の短歌を折に触れ読み返しては、その戦懐から多くの糧を得てきた。数年前に書いた中篇小説「鰊」の冒頭にエピグラフとして掲げたのは、
 いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある蝶を下げて
 である。わたしは実は、この怖ろしい一首ただ一つから出発して想像を膨らませ、物語の全体を創り上げたのである。  (作家・詩人)

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