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鷲田清一さんに政治学者刈部直さんが聞く(804asahi)

「わかりやすく」の危うさば
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写真は共に郭充
 「わかりやすさ」が人気だ。政治の世界でも教育の場でも。でも、何でも「わかりやすく」 でいいのだろうか。危うさは?
 苅部 鷲田さんが初めて一般読者向けに書かれた本、「モードの迷宮」は醐年の刊行でした。いま、哲学者がわかりやすい文章を書くのは流行のようになっていますが、そのはしりでしょう。できあいの思想をかみくだいて説明した本なら苦からありますが、一見平易でありながら、どこか頭の中でつかえて、思考を刺激する作品が多く出てきた。しかし他方、複雑なはずの問題について、正否を単純に断じる議論を「わかりやすい」と歓迎する風潮が、政治の領域をはじめ、世の中にあります。この二つの「わかりやすさ」はずいぶん違いますね。
 鷲田 編集者の故・安原顕さんに、一般向けに書くときは哲学用語を使うな、と鍛えられました。私は思考の現場に読者を巻き込んで、一つのことをすぐには言い切らず、ねちねち、いろいろな方向から行ったり来たりします。だから、読者には難しいと思われているのでは。
 苅部 例えば円錐のように、見る方向によって形が異なる物体について、様々な断面図を同時に感じ取ってながめる。物事に対するそういう姿勢を、鷲田さんの文章に感じます。
 鷲田 思考自体に「ひだ」がないといけない、つるつるした、平らな表面じゃなくて、という思いはあります。
 苅部 同時に、「きしみ」や「ひび」など、不安な手応えのある形容も使われますね。
 鷲田 私がですか? 気がつ意識にみられる、つねに前に進もうとする強迫観念を指摘されています。身近な読書の世界でも、この本のやり方でたちまち成功できるといった、短期の効果ばかり期待して、長い年月をかけて見定める余裕がどうもなくなっている。
 鷲田 「わかる」とか「わかりやすさ」には2種類あると思います。一つは、ふだん漠然と思っていることや、もやもやと考えていたことを、他人が別の言葉でボンと言ってくれ、認めてくれる。だからベストセラーになるんです。安心できるんですね。もう一つは、わかつていたつもりのことが全部ちゃらになる。一から組み替えないとい
けない、と突きっけられる。
 苅部 前者は、小泉元首相にみられたワン・フレーズ・ポリティクスにも通じますね。
 鷲田 彼が使う言葉は、国民の多くが日常の中で感じていたものです。その強度を上げて、ややこしいものは全部抜きにして、ドンと出す。ニュアンスや複雑さへの配慮をあえてせず、それが社会で受けるところに、何か人々の深いいらだちや暴力性の澱を感じます。じやあ、後者のわかりやすさがいいかというと、こっちも危ない。全部語り直すというのは、幼稚というか性急というか。世界を全部変えてしまおう、みたいな……。
 苅部 カルトにもつながる。
 鷲田 思考の熱狂をあおっちゃいけないんです。どんな時代でも、誰もが反対しにくい思想があると思うんですが、今ほどそれが並列でいっぱいある時代は珍しいのでは。土コっていうと反エコは言えないし、クールビズも私は抵抗したけどだめ。
 苅部 たばこもそうでした。
 鷲田 結論が出なくてもいい、出ないまま、それでも決定しなければならないのが私たちの社会生活だとすると、それをしばらく延期するところがあってもいい。気が晴れない、もやもやしている、そういう時に人は「わかりたい」って思うんだけど、「わかった!」っていうカタルシスを求めてしまうと、問題設定も答えも歪んでしまう。
 苅部 異なる価値や利益を追求する者どうしが、どうやって共存するか。それが政治の役割だとするなら、当然、討論や調整に時間がかかることになる。その手間を省き、とにかく「民意」に沿ったように見える決定を、手あたり次第に行うのは政治の自殺でしょう。世論調査の結果に合わせて政策を打ち出し、人気を得る方法もたしかに民主的ではある。でも、そこで前提とされる「民意」が、本当に人々が思っている内容なのか。全体の利益と重なるのか。
その検討が飛ばされてしまう。
 鷲田 僕はよく「思考には溜めがいるんですよ」って言うんですが、ある人に「じゃあ溜めをつくるにはどうしたらいいのか」と聞かれました(笑い)。
 苅部 「実用」志向ですね。
 鷲田 「溜めをつくろう」というのは、そういう問い方はやめましょうということなんです。でも、わからないことに耐えられない。すべてが説明できるとは限らないという苦痛をヒリヒリと感じ、息を詰めていないといけないということもあるんです。わからないことへの感受性をどう持ち続けるか。
 僕らが生きている時代って 「時を駆る」でしょ。あらかじめやっておくとか、先を読むとか。先に先に、という思考法です。でも、答えを急いで出さず、問いを最後まで引き受ける。じつくり考えたり、寝かせたり。すぐにわかろうとしないで、機が熟すのをじっと待つ。それも大切じゃないでしょうか。大事なのは腹の底からの納得
         ▼対談の余白に苅部直′
 「わたしは白分の顔から遠く隔てられている」。鷲田さんの本「顔の現象学」のなかの言葉である。
 こんな風に、鷲田さんの文章は、ほとんど簡単な日常語でつづられている。だが、安易に読み流すことを許さない。それが何を意味しているのか、たちどまって考える営みへ、読者をひきこんでゆく。磯が熟す、というご発言
を敷術して言えば、言葉をたどりながら、自分のなかに流れている時がじっくりと熟して、内容を腹の底から納得できるようになる。
 これが、「わかりやすい」表現の本当に大事なところなのだろう。対談の時間はあっという間にすぎたが、濃密な余韻があとまで残った。
 かるべ・ただし 65年生
まれ。東京大教授。日本政治
思想史。著書に「丸山眞男」
「移り、ゆく『教養』」など0

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